
浄慶寺
天正(1573-92)に増田長盛が天正(1573年~1592年)の頃、元七条村(現奈良市)から郡山に移し、のち1622年に中興開山稍誉上人が現在地に移転したといわれている。本尊阿弥陀如来坐像は平安中期の仏像で国重要文化財。
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天正(1573-92)に増田長盛が天正(1573年~1592年)の頃、元七条村(現奈良市)から郡山に移し、のち1622年に中興開山稍誉上人が現在地に移転したといわれている。本尊阿弥陀如来坐像は平安中期の仏像で国重要文化財。
豊臣秀長の家臣桑原惣兵衛の母妙了が本願寺僧証如に帰依し、隠居屋敷を道場としねその後1637年に寺となったといわれている。
1570年僧円長の創立といわれ。当初は金剛山寺(矢田寺)内に草庵が設けられ、その後移転(時期不詳)
興正菩薩生誕碑・銅像がある。鎌倉時代に西大寺を再興した名僧叡尊(興正菩薩)の出生地。檀家総代の仲家には今も菩薩の数々の遺品が伝わる。
恵心僧都の姉願正尼が開基したといわれている。本尊阿弥陀三尊の中尊は、室町時代の造立、脇侍の観音・勢至立像は鎌倉時代の造立。これを納める厨子は鎌倉時代初期の珍しい紫檀塗螺鈿厨子で国重要文化財。
郡山藩主 本多政勝侯 菩提所 本多政勝侯は徳川四天王の一人
本多忠勝侯の孫で姫路15万石より大和郡山へ19万石で入部。
開山上人は照善院子息政貞侯の家来。
政勝侯の眼病平癒の祈願所として、約400年の歴史を刻んでおります。
平成26年末に再建・整備し、四季折々の花木や芝桜2千株以上に囲まれた樹木葬墓地や納骨堂などがあります。
豊臣秀吉の弟、大和郡山百万石の城主、大納言豊臣秀長の墓所。秀長は、天正19年(1591)1月22日に郡山で没。市指定文化財。
戦国時代大和を統治し、織田信長の命により郡山城を築城した筒井順慶の墓所で、今日残っている五輪塔とその覆堂は、国重要文化財。
国重要文化財本尊木造阿弥陀如来及び両脇侍立像(快慶様式 鎌倉時代)で知られるている。
天正9年(1581)に僧宝誉が長安寺村に建立し、天正13年(1585)に現在地に移転
天武天皇皇子舎人親王の御発願で創建したと伝えられ、本尊は国重要文化財の木造薬師如来坐像。他にも木造吉祥天立像・地蔵菩薩像・毘沙門天立像の国重要文化財を有している。寺の西方の竹藪の中の五輪塔は「九六騒動」の本多家筆頭家老だった都築惣左衛門の墓。
祭神は、誉田別命・三筒男命。本殿は見世棚造りの社殿2棟を並立し1つの屋根に収めた特異な形式で県指定文化財となっている。。室町末風の装飾が残る。「宮相撲」と呼ばれる子供の相撲があった。
在原業平が在原寺(天理市櫟本)から河内の高安(八尾市)にいる恋人のもとに通う時にこの井戸に自分の姿を映したといわれている。傍らに「蟲泣くや河内通ひの小提灯」―在原業平の河内通いを詠んだ与謝蕪村の句碑がある。
祭神は、素戔嗚命。「新城(にき)』の地名は日本書紀に登場する。戦前は威勢の良いだんじり渡御があった。
昭和3年3基の瓦窯が発見された。窯内から発見された古瓦によって鎌倉時代の遺構と認められた。このうち最も保存の良い西端の窯は覆屋が設けられ、他の2基は埋め戻されている。国重要文化財の指定を受けている。
黄檗宗。郡山藩主本多忠常の墓所、長文の碑文のある市指定文化財「歌ケ崎碑」の管理寺。寺内墓地に儒学者谷口元淡と、その高弟の文人柳里恭等の墓もある。
村の周囲に濠をめぐらして外敵と洪水から守り、利水を目的にした中世の遺構で、ほぼ完全な形で残されている市指定文化財。環濠集落の典型的なものとして有名。
平城京の国営市場で東西2ヶ所にあった。その1つが西市。月の後半の15日間開催。秋篠川が物資運搬を担っていた。
朱雀大路の南端にある平城京の表玄関。外国の使節がこの門から入場した。
門は観音寺町の来世橋の位置に比定され、門の礎石は、佐保川の河川敷下にある。
補陀落山と号し、松尾山真言宗。天武天皇皇子舎人親王の建立と伝え、本堂は国重要文化財。「まつのさん参り」、と呼ばれる厄除け信仰で有名。木造大黒天立像、十一面観音立像や絹本著色釈迦八大菩薩の絵画などの多くの文化財やバラ園で知られている。
前方後円墳。全長122.5m。後円部径67m。前方部巾75m。
周囲には馬蹄形の掘を巡らしていた。かつて匂玉類が出土したといわれる。