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「日本の桜百選」にも選ばれた郡山城跡を彩る桜
郡山城は筒井順慶の築城(1580年)に始まる大和でもっとも大規模な城郭で、近世期には、豊臣家、水野家、松平家、本多家、柳澤家の居城となりました。
城郭は徐々に整備されましたが、早くも豊臣秀長の時代にほぼ完成し、増田長盛(ましたながもり)の外堀普請(ふしん)によって城郭の規模が定まったとされています。すなわち、郡山城は内堀、中堀、外堀という三重の堀に囲まれた惣堀<そうぼり>の構えを持つものであり、この中に城郭の中心部や武家地、城下町が配置されたのでした。
城郭中心の曲輪、石垣、堀が良好に残っており、本丸・常盤曲輪・毘沙門曲輪・玄武曲輪・陣甫曲輪・厩・緑曲輪・麒麟曲輪・薪蔵と内堀・中堀が、令和4年11月10日に国の史跡に指定されました。明治の廃城により城郭建築は失われましたが、昭和の時代に追手門や櫓(やぐら)などが再建され、往時の威容を感じることができます。現在、歴史公園の整備が行われている麒麟曲輪・厩・緑曲輪・薪蔵を除き、一帯は公園化されており、立ち入り、見学は自由です。
大和郡山の「金魚」
今から約2000年前、中国南部地方で野生のフナの中から赤色のものが発見され、これを原種として、変種の選別淘汰の末、今日の金魚に至っています。
我が国には、文亀2年(1502年)、室町時代中頃、中国から渡来したというのが定説のようです。当時はもっぱら貴族、富豪のはなはだ珍奇な愛玩物として飼われ、庶民の間で流行したのは、明治年間といわれています。
大和郡山市における金魚養殖の由来は、享保9年(1724年)に柳澤吉里候が甲斐の国(山梨県)から大和郡山へ入部のときに始まると伝えられています。
幕末の頃になると、藩士の副業として、明治維新後は、職禄を失った藩士や農家の副業として盛んに行われるようになりました。もっともこれには最後の大和郡山藩主柳澤保申候のおしみない援助があったことが大きいと言われています。
また、これら歴史的背景に加え、自然条件としては水質、水利に恵まれた農業用溜池が数多くあり、溜池に発生する浮遊生物(ミジンコ類)が金魚の稚魚の餌に適していたことなど、有利な条件が備わっていました。
昭和40年代は経済発展と養殖技術の進歩に伴い生産量が年々増加し、 国内はもとより欧米諸国や、東南アジアなど外国まで輸出されました。
近年は都市化に伴う水質汚濁等の環境悪化などで生産量は減少したものの、 養殖農家約50戸、養殖面積約60ヘクタールで、年間金魚約6,000万匹が販売されています。
また、金魚品評会が毎年4月上旬桜花満開の頃、金魚にゆかりの深い柳澤神社で行われ、市民はもちろん、近郊の愛好家にも好評を博しています。
「語り部の里」やまとこおりやま
現在の大和郡山市稗田町出身の「稗田阿礼(ひえだのあれ)」は、古事記の序に『時に舎人(とねり)あり、姓は稗田、名は阿礼、年は二十八、人となり聡明にして、目に度(わた)れば口に誦(よ)み、耳に佛(ふ)るれば心に勒(しる)しき』と記されています。
一度、目や耳にしたことは決して忘れなかった稗田阿礼に、時の天皇、天武天皇は、古代の様々な事柄を読み習わし、授けました。そして30有余年後の元明天皇が、太安万侶(おおのやすまろ)に「稗田阿礼が読み習った事柄を記録せよ」と命じ、712年に古事記が誕生しました。
現在、阿礼は、稗田町にある『賣太神社(めたじんじゃ)』に祀られ、『語り部の神様』『語り部の祖』として、地元の人に親しまれています。
古事記には、多くの神話、歌謡、伝説が記されています。
古事記を紐解くと、古代人の生き方や物の考え方などを推し量ることができます。また、随所に先人の深い知恵や家族の愛がちりばめられ、現在(いま)を生きる私たちにたくさんのことを伝えています。
1300年の時が流れた現在、世の中に情報が氾濫し、「語る」こと「語り継ぐ」ことの大切さが忘れさられようとしています。また、核家族化が進み、家庭における「語り部」の存在が希薄になっているといえます。
おりしも、2011年3月、東北を襲った大震災では、過去の災害から語り継がれてきたことや、言い伝えられてきたことが、多くの人の命を救いました。知恵や経験、歴史や文化を語り継ぐことの大切さが今、改めて問われようとしています。
今、わたしたちが後世に語り伝えたいこと・・・
稗田阿礼が古代の様々な伝承を『語る』ことで後世に遺した『古事記』。
この壮大なスケールで、ロマンに満ちた古事記の素晴らしさを、もっと多くの人に知ってもらい、ここ大和郡山がそんな古事記の発祥の地であることを地域の誇りとし、まちの魅力の再発見となることをめざします。
そして、大和郡山市を『語り部の里』として「語る」こと、「語り継ぐ」ことの大切さを、全国へ発信していきます。
古代の大和国添下郡村国郷、矢田郷、添上郡大宅郷、平群郡額田郷の地です。延喜式内の矢田坐久志玉比古神社(矢田町)や菅田神社(八条町)、賣太神社(稗田)が鎮座しています。
都市の形が形成されたのは、戦国時代末期に筒井順慶が郡山城に拠り、その城下町が発達してからです。順慶亡き後1585年に豊臣秀長(当時羽柴秀長)が郡山城に入り、郡山はこの時期大和国の中心都市として栄えました。
江戸時代に入ってからは一時奈良奉行所の管轄となったが荒廃してしまいます。大坂夏の陣後に同戦役で活躍した水野勝成が入り、以後松平忠明に始まる松平家、本多政勝に始まる本多家と続き、享保9年(1724年)には、享保の改革における幕府直轄領拡大政策に際して甲斐国が幕領化され甲府藩藩主であった柳沢吉里が転封され、明治維新まで柳沢氏が郡山藩藩主家として一帯を統治しました。また、片桐且元または片桐貞隆に始まる片桐氏が市内、小泉町の小泉陣屋に入り、小泉藩(片桐藩)藩主となりました。
版籍奉還・廃藩置県に始まる紆余曲折を経て、1887年に奈良県が再設置された。1889年の町村制実施で8つの町村(郡山町、筒井村、矢田村、本多村、平端村、治道村、平和村、片桐村)が誕生。1896年に添下郡と平群郡が合併、生駒郡が成立、現在の大和郡山市役所に生駒郡役場が置かれました。
奈良の県庁所在地・奈良市からのアクセスも良く、JR・近鉄電車・西名阪自動車道も通っているので、奈良県内の交通の要所になっています。
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